公務員試験じゃぱん

3度の公務員転職者による、人生における大切なことをお伝えしていきます。公務員試験や仕事内容紹介を超えた人生において大切なことを一緒に考えていきましょう!

私が地元消防士を退職した理由(鴨頭嘉人かもがしらよしひとさんに学ぶ)

「私がなぜ公務員を3度退職したか」の続きです。

(まだ読んでいない方はぜひこちらもご覧ください。)

 

私が地元消防士を退職した理由

 

これは、理由は1つではありません。よく、何で辞めたのと聞かれますが消防士を辞めた理由は簡単には伝えることができませんが、なるべく分かりやすくお伝えしたいと思います。
まず、消防士というのは私が当初からやりたかった職であり、公務員を目指した理由も消防士になりたかったからです。もちろん、新卒の時や東京にいた際も地元である地方の田舎町を何度も何度も受験しましたが、採用人数が極端に少なく合格するに至りませんでした。しかし、団塊の世代が退職する年になった際に、ようやっと10名ほど募集が出て倍率が下がり(それでも10倍以上)やっとのことで合格に至りました。実に7年かかりました。

 

しかし、夢にまでみた消防士になれたのですが、私が予想していなかったことがありました。それは勤務体制についてです。
私がいた自治体の消防は「①当番(朝8時30~翌日朝8時30まで)、②非番(朝8時30交代後休み)、③公休(1日休み)」を繰り返す勤務体制でした。

意味が分かりますでしょうか?もう少し詳しくお伝えすると、①の当番は、朝8時30~翌日の朝8時30までの24時間勤務です。仮眠時間は2時間程度です。そして②の非番の日になり次のチームとバトンタッチして休みになるのですが、すぐ帰れる訳ではなく事務作業が残っていると午前中10時やお昼頃まで事務作業をします。(実質28時間程度の勤務)そして、帰ると当然くたくたでその日は1日寝て過ごします。

③の公休が1日休みになるのですが、翌日の激務を考えるとほとんど家でゆっくりとしています。そして、また①に戻るのです。
これは、予想外でした!しかもこれが退職まで永遠に続くのです・・・。遠出ができません。連休がありません。基本、町から出ての宿泊は上司(うちの場合はトップ)の決済が必要で、いちいち許可を取っていました。しかも、更に凄いのが事故や火災があると非番招集といって②の職員に電話がかかってきて職場に戻されます。昼間だろうが、夜中の2時だろうがです。
仕事が大変で、上下関係が厳しいのは覚悟できていました。しかし、家族で遠出もできないというのは本当に辛く、その勤務体制から若干後悔が出てきました。しかし誤解の無いようにお伝えしておくと、この勤務体制をポジティブに考えている人もちゃんといます。それは、月の休みにすると20日は休みで出勤する当番日は10日だけなのです。1日行って2日休み。要はその人の考え方です。あくまで「私」にとってはマイナスであっただけのことです。この勤務体制に魅かれ働いている人も沢山います。

 

話を元に戻します。


それでもせっかく7年間もかけてようやっと念願だった地元消防で働くことができたので、辞めるつもりはありませんでした。でも、ある大きな出来事がきっかけでさらに真剣に転職を考えることが起こりました。

 

それは2011年の東日本大震災です。

 

自分のいた自治体も被災したとはいえ沿岸部ではなかったため津波の被害はなく、断水と停電から解消されると(約1ヵ月程度だったと思います)ほぼ通常通りとなりました。

 

沿岸部は車で1時間半ほどでいける距離にありました。津波被害を受けた自治体には親戚もいたり、消防学校を共にした同期もいたため、非番や公休の休みの度に消防士の仲間と行っていました。

自衛隊の方々が、家や車の中を遺体捜索していました。私も仲間と「絶対に一人は見つけよう」と話し、一日中探していました。

また、自分の町でおムツや必要そうな物を買い、避難所を周り届けていました。正直お金はほとんど無くなりましたが、一人でも助けたい思いからその時は後のことはあまり考えていませんでした。

 

私は東日本大震災の時、本当に消防士で良かったと思いました。もし、東京の役所で働いていたら、恐らく休みを取ってボランティア活動をしていたと思います。それが、消防士として体を張って地元で役に立てるのは、この時のために神様が合格させてくれたのかな〜、と考えていました。それほど、私は地元へ貢献したいという想いが強くありました。

 

そんなある日、驚いたことがありました。東京の役所時代の同期から連絡があり、「今あなたが働いている町の隣町の沿岸が津波被害を受けて大変だから、こちらから職員を交代で送ることになった。知り合いも沢山いるだろうから、ぜひ状況を伝えに来て欲しい。」と言われました。実はその町と東京で以前働いていた役所は協定を結んでいるため、職員が援助に向かうことになったそうです。

何日か後に、その町へ行ってみると、同期や知り合いが何人も来ていました。皆顔見知りの人たちばかりで、本当にうれしく頼もしく思えました。職員をおおよそ1、2週間程度で数名派遣するとのことでした。ただでさえ小さな町が、壊滅被害を受け職員は疲弊しています。そこに、東京から応援を派遣して支援していこうというものでした。

私は簡単に知り合いに現状を伝えました。その後はすぐに東京から来た知り合いの職員は必死に業務を始めていました。

その後、何度かこの町を訪れ沢山の知り合いに会うことができました。1ヵ月も過ぎると、私の住んでいる町は電気、水道、ガス元通りとなり、ほとんど震災前と変わらない様子に戻りました。私は、その後も何度も沿岸の町に通い、役所で派遣されてくる職員に会っていました。消防業務も通常通りに戻りました。災害があれば出動し、訓練をするようになりました。

その頃から少しずつ私の気持ちに変化が出てきました。「沿岸では沢山の被災者がいて仮設住宅に暮らしている。沿岸の親戚も避難所にいる。体を使った活動よりも今後は行政的支援が重要な時」と思うようになりました。沿岸の町で東京から派遣されて、必死に支援を行っている知り合いの職員。隣町で訓練のため腕立て伏せをさせられている自分。本当に、今の自分が人々の役に立つためには、ここで腕立て伏せをして体を鍛えている以上にやるべきことがあるんじゃないのか?7年間の役所人生で培った能力を発揮するべきなんじゃないのか。そう思うようになってきました。消防士としての1年目の私と7年間の東京での役所経験がある自分。今の自分の能力は役所の能力の方がまだ高いと考えていました。

その頃から、県や沿岸市町村の職員採用試験を検索するようになりました。その時、転職したい気持ちは50%は超えていたと思います。

そして、更に自分が住んでいる町は放射線が若干高いいわゆる「ホットスポット」の町であることも分かりました。当時、私には震災の前月に産まれたばかりの子どもがいました。このままではいけないという気持ちから、住む場所を変え放射線が低い街へ引っ越すことにしました。

しかし、当然他の町へ引っ越すと災害時に非番招集がかかった際にすぐに駆け付けることができません。何度か連絡があった際に行けない旨を伝えたことがあります。その時の消防の勤務規約では「かならずその町に住まなければいけない」という明確な決まりはなかったのですが、暗黙のルールとしてその町に住むことが決まっていました。中には他の町に住んでいる先輩などもおり、「大丈夫だよ」とは言っていましたが、非番招集がかかる度に自分が行けないという罪悪感がありました。もちろん、当初は自分だけ単身赴任のような形で3か月ほど町に残っていましたが、先に述べたような勤務体制のため週末だけ家に、ということはできません。このままでは家族と一緒に住むことすらできないという思いから自分も家族のいる町に引っ越しました。

 

ホットスポットはいつ無くなるんだろう。調べてみると、何十年、下手すると何百年と数値は変わらないと出ています。そして、放射線はどのような影響があるか分からないそうです。特にチェルノブイリでは小さい子ども達に影響が出やすいとありました。

自分の子どもの健康か、消防士として町へ貢献することが大切か。あの町にも多くの子ども達が住んでいる。自分だけ引っ越すのは逃げているみたいじゃないか。でも自分のエゴで将来子どもにもしもの事があったら後悔しないか。頭の中は常に葛藤していました。

今思うと、自分は本当にまじめな性格だったと思います。

 

そして、私は思いきって人事に相談し消防士から事務職員へ職種変更できないか確認してみることにしました。事務職員であれば、特に住む場所に制約はなくほとんどの人が別の町へ住んで通っていました。また、先に述べたように今までの役所の経験を活かして今よりも人々のために貢献できるのではないか。隣町の沿岸へも役所の職員として援助できるのではないだろうか。そう考えていました。

 

結果はだめでした。

 

役所の人事、そして消防の上司にも相談しましたが現在は消防士の数が少ない。もしそれを一度許してしまうと、他にも希望してる人が実はいて、しめしがつかなくなってしまう、というものでした。

 

私は、その瞬間に「転職しかない」と決めました。 

そして、沿岸部のある市役所の試験に合格し、3年間で消防士を退職することとなりました。

 

消防士を辞める際はそのチームの隊長や先輩が沢山写真を撮ってくれ額縁まで準備してくれました。そして同期の皆も盛大に送り出してくれました。今でも同期とは飲み会で会ったりします。

 

消防士というのは厳しい職場で、時には命がけで働き、寝食を共にするのでその仲間意識は非常に強いです。チームで旅行に行こうと話になった時もある先輩が上司に「〇〇が今体調不良で休んでいます。同じチームで大切な仲間です。そいつを待ってから一緒に行くべきです!」などまるで青春ドラマのようなかっこいい先輩も沢山いました。

 

私は以上のような理由で退職になってしまいましたが、このような条件がもし重ならなければ今も働いていたと思います。確かに厳しい職業であると思いますが、それ以上にやりがいがあり仲間意識が強く、3年も働けばある程度の流れはつかむことができます。

私はたった3年間だけでしたが、人生の中で3年間だけでも消防士として働けたことが自分の人生に大きな影響を与えてくれたと思います。消防学校での半年間は地獄でしたが、その地獄をあえて作り出してくれた本当は心優しく熱い心を持った教官たち。厳しいけどちゃんと優しい言葉をかけてくれる職場の先輩達。そして、今だに飲み会に誘ってくれる同期。

私はこの3年間で多くのものをお土産としてもらうことができました。

もし、消防士を考えている方がいたら私は「おすすめ」します!

 

これを知らずに私の経歴だけを見て「どうして消防士辞めたの~?」と飲み会でしかも大勢の前で聞かれたことがありました。当然いちから説明するには時間がかかるし、真剣に聞くつもりもないだろうな~という思いから「いや~、厳しすぎてついていけませんでした~。」と答え「やっぱり厳しいらしいよね~。」と言われました。

ですから、私の今しか知らない人は消防士を厳しいから辞めた弱い人、というレッテルが貼られていると思います。私は全然それでOKです。むしろこの3年間を自分の中に大切にしまっておこう。この体験談を必要としている人が現れたら伝えよう、と思っています。(現に今消防士を目指している新卒や転職希望者のアドバイスの大切な経験談となっています。)

 

消防士だけでなく様々な職業を想像だけで、厳しいらしい。縦社会でブラックだ。だからお前はやめておけ。という方がいますが、本当に無責任なアドバイスだと思います。その仕事のアドバイスができるのはその職業を現在経験している人、もしくは経験したことがある人だけだと思います。当然、その中でもネガティブな話をする人もいると思います。それでいいと思います。人それぞれですから。

でも、何も経験をしたことが無い人は想像で伝えるのは違うと思います。せっかくその職業で活躍でき多くの人を将来助けることができる人だったはずなのに、その希望の芽を摘んでしまうことになるからです。

自分が正しい、やりたいと思うなら「とにかく1度やってみな!3年やってみてだめならまたその時考えればいい。自分の中でやり残したこと、あの時もしあれをやってたら成功してただろうな~と飲みながら後からぐちぐちいう人生よりもとことん自分を信じた方がいい!他の人や親の意見に惑わされず、自分が決めること」と伝えたいです。

 

私の好きな講演家の鴨頭嘉人(かもがしらよしひと)さんも「人の夢は無責任にとにかく応援する!だって誰も人の人生の責任は取れないんだから」と言っていました。まさしくそうだなと思います。

 

だから自分の人生を思いきって生きる!それが一番だと思います。

 

3つ目の市役所についても今後お伝えしていきますのでぜひご覧ください。

 

それと、鴨頭嘉人(かもがしらよしひと)さんのユーチューブをまだ見たことが無い人はぜひ見てみてください。おすすめです!